広尾1丁目の旧JHAスクール
(2005年~2012年)


ブライアン・ワイス博士と対談
(2018年)


五反田JHAスクールの教室風景
(2012年~)

日本ホリスティックアカデミー(JHA)創立20周年記念The 20th Anniversary of Japan Holistic Academy(JHA)

日本ホリスティックアカデミー(JHA)の前身ホリステイックワーク(HW)は2002年11月に東京・広尾にヒプノセラピー(催眠療法)を教え、施術するサロンとして誕生しました。その後、HWは施術所として、JHAはスクールとして、ヒプノセラピー(催眠療法)に携わってきました。「クライアントさんが心を自由に解き放ち、病や心の不安からも解放され、人生を楽しく豊かに健やかに送れるようにサポートすること」そして「人と社会に貢献する癒しのスペシャリストを養成すること」という使命を貫いて誠実に活動してまいりました。

JHAで学ばれてしっかりと癒しの技術を身に付けられたヒプノセラピストとヒプノインストラクターの皆様は日本のみならず世界各地で活躍されています。またHWで癒しのヒプノセラピー・セッションを受けられたクライアントの皆様からは数多く感謝のメッセージをいただいております。

2022年11月で創立20周年を迎えました。この20年で延べ1万人以上の方たちにヒプノセラピーをお教えし、施術をさせていただきました。

これからも「Love(愛),  Compassion(思いやり),  and Kindness(優しさ)」のこころで新たな決意をもって取り組んでまいりますので、今後ともよろしくお願い申しあげます。

日本ホリスティックアカデミー
代表 村井 啓一
2022年11月吉日

JHAの20年の歩みJHA: 20 Years of Milestones

2002年6月

ヒプノセラピーの施術と講座を行うサロンの開業準備を始める。

2002年9月

村井講師が米国催眠士協会(NGH)認定ヒプノセラピストとなる。

2002年9月

オメガ・インスティチュートで開催された前世療法トレーニングに参加。以来村井はほぼ毎年20回以上ワイス博士の前世療法トレーニングに参加。

2002年11月

東京都渋谷区広尾1丁目にあるマンション広尾台の一室で催眠療法センター・ホリスティックワーク(HW)を同僚セラピスト1名と開設。施術と講習を行う。この頃に村井が前世誘導の技法として「包み込まれ法」を考案する。また、人格移動の技法を創案し実践で用い始める。同時に脳科学とスピリチュアルの接点を探り始める。

2004年4月

村井が日本人初のNGH認定インストラクターとなり、ホリステイックワーク(現・日本ホリステイックアカデミー)が日本初の米国催眠士協会(NGH)認定スクールとなる。

2005年3月

ヒプノセラピースクール部門の有限会社日本ホリスティックアカデミー(JHA)設立。
講座は日本ホリスティックアカデミー(JHA)、施術はホリスティックワーク(HW)で行う。

2005年6月

マンション広尾台から徒歩3分のテラスハウス・ホーメックス広尾に移転。
この頃に「悲嘆療法」を創案し、セッションで用い始める。

2007年9月

日本ホリスティックアカデミー(JHA)が有限会社から株式会社に移行。同時にホリステイックワークをJHAの施術部門として統合する。

2009年4月

米国催眠士協会(NGH)の日本代表に村井が任命され、日本人初のNGH認定マスター・インストラクター(CMI)となる。日本でのNGH認定インストラクター養成講座が始まる。この頃から脳科学に基づくヒプノセラピーを教え始める。

2012年9月

広尾から東五反田2丁目の五反田栗の木ビルに移転。

2013年5月

一般社団法人日本臨床ヒプノセラピスト協会(JBCH)を設立。翌年8月から始動。

2014年12月

九州大学名誉教授の故・井口潔先生(当時93歳)を招聘して五反田で2日間の講習を開催。生物学の視点から見た子育てと心理療法についてのお話を伺う。

2015年4月

ブライアン・ワイス博士の日本講演を東京・大阪・福岡で開催。3カ所で延べ1000名以上の参加者で満員盛況となる。ワイス博士夫妻と空海を巡る旅を楽しむ。

2015年9月

『悲嘆療法-死者との再会で癒される-』(著・村井啓一/静林書店刊)を発刊。静林書店はJHAの出版事業部門。

2016年6月

ミルトン・エリクソンの三女、ロクサーナ・エリクソン博士の来日講習を支援する。

2016年10月

日本催眠学会の要請を受け第32回学術大会に協力、村井が同学会理事として学会運営に参画する。以後4年間毎年JHAの受講生が同学会学術大会の大会長を務める。

2017年11月

日本統合医療学会の依頼を受けて第21回同学会年次大会でヒプノセラピーのワークショップを開催。

2018年1月

『前世療法-その歴史と現代的意義-』(著・村井啓一/静林書店)を発刊。

2018年4月

ブライアン・ワイス博士の日本講演を東京と大阪で開催。ワイス博士夫妻と出雲大社と伊勢神宮を訪問する。ワイス博士の著書『ソウルメイト』の翻訳マンガ本(静林書店刊)を発刊。

2020年3月

新型コロナウイルスの感染状況と厚労省の分析・提言を顧慮して、3月25日から4月24日までの一ヶ月間に開催される全コースを中止。

2022年4月

神奈川歯科大学大学院に統合医療の教育と研究を行う日本初の大学院講座「統合医療学講座」が開設。「催眠療法」の講座を村井が担当。

2022年11月

2002年11月の開業以来20周年を迎える。

JHA創設者 村井啓一のヒストリーHistory of Keiichi Murai, Founder of JHA

人生は出会いの連続です。誰に、何に、出会うのかがその人の人生を決めるといっても過言ではないでしょう。村井にも幼少期から様々な出会いがありました。そこから得られた学びや気づきがありました。人生は教えられたり教えたりの連続です。また、学びは自分だけのものにしてはいけない。人にシェアすること、人に伝えることが必要だということも学びました。人生を決定づけた「ブリキの看板」や「どもり」等々との出会いがどのように影響をあたえ、村井をヒプノセラピストにしていったのかをご覧ください。

(素敵なイラストを描いていただいた栗原真波さんと、そのイラストをいたく気に入り動画風に仕立てていただいた総合制作&ナレーションの櫻井浩二さんに深く感謝申し上げます。)

ナレーション内容のテキスト文章はこちらです。

日本ホリスティックアカデミーの歴史を語る前に、創設者である私、村井啓一のストーリーから始めたいと思います。

私は生まれてすぐに祖父母に育てられました。両親と離れて海と山に囲まれた愛媛県の田舎町で過ごしたのです。

小学3年生の終わりの春休みに母親が現れました。私の気持ちを確認することもなく、兵庫県の尼崎に連れてゆかれました。母子家庭の始まりです。
慣れ親しんだ環境から突然引き離されたため吃りや緊張症などの症状が出ました。
母は優しい女性でした。仕事が休みの日曜の朝には幸せそうに鼻歌をうたいながら朝ご飯を作りミルクコーヒーを淹れてくれました。今でもその記憶は私を幸せにしてくれます。

小学校の通学路にあった「催眠術でどもりを治そう!」と書かれたブリキの看板を毎日のように眺めていました。

中学、高校と地元の公立校に通い、英語の詩が好きだったので同志社大学の英文科に入学しました。部活は美術部に入りましたが、ほとんど絵も描かず、部室で過ごすか同人誌の仲間との飲み会で過ごす毎日でした。

4年生の時に大学の近くの喫茶店でアメリカの詩人ケネス・レクスロス氏と出会いました。「君は詩の才能がある。アメリカで勉強しなさい。」その言葉を真に受けて留学を決意したのです。卒業しましたが留学資金がなく、一攫千金を夢見て英会話教材の訪問販売をしましたが全く売れません。地道な仕事を求めて大阪の貿易会社に入り、そこで2年半働いて資金を貯めました。

アメリカの大学院に入るにはTOEFLの英語テストで600点は必要でしたが400点台しか取れませんでした。訪米しコロラド州デンバーの英語学校に入学。必死で学び3か月で必要点数をクリアしました。

アメリカの大学院に入るにはTOEFLの英語テストで600点は必要でしたが400点台しか取れませんでした。訪米しコロラド州デンバーの英語学校に入学。必死で学び3か月で必要点数をクリアしました。

いくつかの大学院に願書を出し、アラスカ大学の学部長から「詩人にとってアラスカは理想の地です。アラスカの自然が君を詩人にしてくれるでしょう」という手紙をもらい、アラスカ行きを決意しました。

1975年アラスカ大学大学院の創作科に入学。同じ時期に留学してきた写真家の星野道夫君と親しくなりました。夏休みにはエスキモーやアラスカインディアンの友人の村や部落を訪問しアザラシ猟に同行したりサーモン漁を手伝ったりと現地の文化に慣れ親しんだ生活を送りました。

アラスカの自然と人間をテーマに英語の詩を書き、朗読会を開催しました。アラスカでの日々を4年間体験し、帰国しました。

帰国後は大阪の広告代理店で英文コピーライターとして働きながら詩や小説やノンフィクションを書いていましたが、何かが足りないことに気づきました。東京の外資系医薬品会社に入社し、2年後にはコダック社の広報宣伝部に転職しました。コダック社で勤めた10年間では他社では経験できない様々な案件を担当しました。その後デルコンピュータに転職しました。

コダックからデルへ移る前に、南インドへ旅にでました。目的は2つ、ひとつはアガスティアの館を訪れ、私の人生の記録を書いたアガスティアの葉を見つけること、もうひとつは神様といわれるサイババに会って本物かどうか確かめることでした。当時の私はスピリチュアルなものを否定しており、アガスティアの葉もサイババもニセモノだと思っていたのです。しかし、私の葉っぱが見つかり、私しか知り得ない個人情報を言い当てられたのです。サイババも不思議なことが起こりました。サイババに渡して欲しいという手紙を預かっていた私は、その手紙をただじっと手に持ったまま、心の中で「本当に神ならあなたから手を差し出してこれを受け取ってみなさい」といった念を送ったのです。サイババは私の前で手を差し出し、私の手紙を受け取りました。

デルコンピュータに入り2年ほどたった頃に、アスクルの社長から声がかかり転職しました。私は人事・広報・総務を担当する取締役となり必死に働きました。東証への上場を果たし、売上も急成長しました。仕事は忙しかったですが、心は満たされていたのです。

ただ、土日も出社していたので、家族とはほとんど会えません。あるとき家族全員が病んでいるのに気づきました。家族とのコミュニケーションが何一つできていなかったのです。

私は仕事を辞めて家族と時間をともに過ごすことにしました。家族と一緒に時間を過ごすと半年もしないうちに家族の皆が元気になっていったのです。「時間は愛」だと実感しました。家族のためにもっと何かできないかと考えたときに、昔、吃りで悩んでいた頃に見たあのブリキの看板を思い出したのです。

催眠療法のスクールを探して、日本で学び、米国催眠療法協会(ABH)や国際催眠連盟(IHF)という団体の認定を受けました。学ぶうちに家族に施術するのは難しいことが分かりましたが、癒しの道に進むことを決意しました。

2002年6月に東京の広尾にあるマンションの一室で男性セラピストと一緒に開業準備を始めました。同年9月にはニューヨークでブライアン・ワイス博士の前世療法トレーニングを受講。ワイス博士の人間性に強く感銘を受け、以後ほぼ20年間ワイス先生の講習を受け続けました。

また同じ9月にはニューヨークで米国催眠士協会(NGH)の講師から催眠療法の基礎を学び米国催眠士協会のメンバーとなりました。そこで知り合った受講生から別の講師を紹介されて学び続けるうちに米国での催眠事情が段々とわかってきました。

2002年11月に屋号『ホリスティックワーク』でヒプノセラピー全般の施術と教育を行うサロンを開業しました。2004年4月には日本人として初めて米国催眠士協会(NGH)の認定インストラクターになりました。2005年6月にはサロンをすぐ近くのテラスハウスに移転しました。2007年9月に「ホリスティックワーク」は「株式会社日本ホリスティックアカデミー」傘下の施術部門となりました。

2009年には米国催眠士協会(NGH)から日本人初のNGH認定マスターインストラクター兼日本代表に任命されました。また、その頃に米国催眠療法協会(ABH)や国際催眠連盟(IHF)のマスターインストラクターにもなりましたが、後にABHとIHFの倫理にもとる行動や内情を知り、この2団体からは脱会しました。この頃から脳科学に基づくヒプノセラピーを教え始めています。

2012年9月に五反田駅近くのオフィスビルにサロンを移転。2013年には 優れたヒプノセラピストを育成して日本のヒプノセラピーを普及・発展させるために一般社団法人日本臨床ヒプノセラピスト協会(JBCH)を設立しました。

2015年4月にはワイス博士ご夫妻を日本へ招聘し、東京、大阪、福岡で講習を開催しました。同年9月にはJHA傘下の出版社である静林書店から『悲嘆療法』を発刊。

2016年には村井代表が公式学会である『日本催眠学会』の理事に選任されました。

2018年4月にはワイス博士ご夫妻を再度日本へ招聘し、伊勢神宮と出雲大社をめぐり、東京と大阪でそれぞれ2日間の講習を開催しました。ほぼ同時期に書籍『前世療法-その歴史と現代的意義』を静林書店から発刊しました。

2022年4月に神奈川歯科大学大学院に統合医療の教育と研究を行う日本初の大学院講座「統合医療学講座」が開設され、村井が「催眠療法」担当講師に選任されました。
  
開業以来、世界に先駆けて脳科学とスピリチュアルの融合を念頭に置き、脳科学に基づくヒプノセラピーや癒しの効果的な技法を創案して実践の場で活用し、スクールで教えてきました。

開業から20周年を迎えて、これまでの村井の人生を俯瞰してみると、すべては一つのキーワード「コミュニケーション」につながっているように思えます。このヒプノセラピーというコミュニケーション技術を駆使して、これからも日本ホリスティックアカデミーの理念と使命に沿って催眠療法の普及と発展に寄与すべく日々研鑽に努めてまいります。